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　母は、いわゆる港の女だったらしい。海のよく見える窓辺に座り、外ばかり見る。椅子にもたれたまま、呼びかけてもこちらを向くことはなかった。母の顔の記憶は、花に埋もれて静かに眠る顔。子供心に母を美しいと思った。

　葬儀の記憶は既に朧げで、親類を名乗る人々がやって来ては、何かを小声で話していた。座布団の上で縮こまる自分に、気が違っていたのだと、誰かが言った。どうして、目も口も閉じて何もできないでいる母にそんな事を言うのか、理解できなかった。悔しくて、握った手のひらに、爪が食い込んだ。悲しくて泣きたいのに、どうしてもうまく涙が出ない。悲しんでいないのだと勘違いした大人が、気の違った血が流れているのだ言った。いつか母親のように海に囚われるだろう。母のように海を眺めて日々を過ごすだろう。

その言葉は、呪いのようだった。

　ゴボゴボと水の中に落ちていく感覚に、目を覚ますと、いつもと変わらない朝だった。違う事と言えば、叔父から連絡があったくらいだった。正月に帰ってくるのか。来るのなら、港の市場でおいしいものを探しておくからと、いつものように快活な声で言った。もう、そんな時期か。ハロウィンに鷭里と遊んだと思ったら、もう十二月だった。どうりで忙しいわけだ。港町の夢など見ている場合ではない。そう思っても頭が重い。ベッドの上で半分だけ身を起こす。耳の奥で、波の音が聞こえるような気がした。別におかしくなどない。港町で育ったのだから。潮の匂いを覚えていても、湿った海風を覚えていても、それは思い出なのだから。それなのに、奇妙な違和感は何だろう。

　うつむくと、伸び放題の髪が垂れて頬に触れた。

「悟浄くん、お正月、帰るの？」

　昼ご飯を食べていると、チーフが椅子ごとするすると滑って来た。ベーグルを片手に、相変わらず忙しない人だ。

「そのつもりですよ。」

「じゃあ、通りもん買って来て。通りもん。」

「気に入ったんですか？」

「そうそう。とりあえずこれで。」

　いつの間に用意したのか、机の隅に置かれた茶封筒には「通りもん代、足が出たら教えてください。」と付箋がしてあった。ついで同じくように「手が止まっているようなので、リフレッシュをおススメします。」と付いたハイライトをくれた。

「…………すみません。」

「悟浄くん、そこは、ありがとうで。」

　とっとと自分のパソコンの前に戻ってしまったチーフは、ベーグルの最後の一欠片を口に入れ、コーヒーで流し込んだ。

「…………。」

　夢のせいか、なんなのか、今日は朝から調子が悪い。近くのパン屋でせっかく目当てのデニッシュを買ってきたのに、半分もしないうちに、進まなくなってしまった。これ以上はおやつに回してしまおうと、ビニールに戻して口を結んだ。

「煙草吸ってきます。」

「行ってらっしゃい。」

　こんな都会で聞こえるはずのない、海の音が、耳の奥で鳴りやまないような気がして、どうしようもなく気持ちが悪かった。本当は懐かしいはずのそれが、今はひどく疎ましい。

　喫煙室で端末を開くと、鷭里から忘年会代わりに二人で飲みに行こうというメッセージが届いていた。暗黙の了解かクリスマスについてはお互いに話題にしないけれど、今年は平日だし、彼も職業柄、そのんな日は疲れ切っていて無理だろう。

　帰郷する前に行けそうな日を適当にいくつか打つと、二十七日に最寄り駅の居酒屋でと、めずらしくすぐにメッセージが返って来た。ついでに、年末は予約がすぐに埋まるからそこそろ髪を切るなら早めに連絡が欲しい旨が書いてあったので、「今のところ切るつもりはない。」とだけ返した。

「何か月切ってない？」　

「夏以降切ってない。」

「こないだ毛先の傷みがひどかった。」

「知ってる。」

「髪の毛伸ばすなら、手入れをしろ。」

「伸ばしたいわけじゃない。」

　最後のメッセージに既読が付かなくなり、端末越しの会話は終わってしまった。禁煙室の窓に映る自分は、どこか疲れた顔で、げっそりとしていた。後ろに束ねてしまわないと邪魔だと思うのに、切る気は起きなかった。

　その理由は、自分でもわからなかった。

◇　　◇　　◇

　叔父はお盆が近くなると、きまって、母親の墓のある島に連れて行ってやろうかと言った。けれど、母の葬儀に来た大人達の冷たい目を思い出すたびに、背中が冷え、首を縦に振ることができなかった。結局、高校の最後の年まで、連れて行ってもらう事はなかった。その時も島の人に会うことのない、夜だった。

夜の海に、船を走らせながら、「もしこの先気が向いたら、昼間においで、海の色が変わる瞬間が綺麗だから。」と、叔父は言った。

昼の島を、海を見たいと思うようになったのは、進学で町を離れてからだった。なぜか無性に懐かしくなって、安価な魚を買い込んでいると、ホームシックじゃないのかと、同じアパートに住む鷭里は笑った。

島を出ていった娘の産んだ子どもも、母と一緒に島を出た叔父も、島の人からすれば「外れ者」でしかなく、昼間の島を訪れるのに、母の墓参り以上の意味を見出すつもりはなかった。

船着場とは反対側の崖の上にある、小さな墓地に母は眠っている。石が風雨に晒されて、初めて来た時は打ち捨てられた場所かと思った。

　見晴らしの良いその丘で、母の墓碑の前に花を入れていると、ひょろりとした影が、水の音をたてながら、石段を登って来た。繁る葉の隙間から差し込む夏の日差しを手で遮るようにして息をつく、その影の形を知っていた。忘れるはずもなかった。大雪の日に、一度だけ話しただけの、クラスメイト。

「…………。」

「…………、……八戒？」

「…………。」

「……どちら様ですか？」

「…………え？」

　高校を卒業してから五年と少し。自分の見た目はそんなに変わった気はしない。そもそも、この赤い髪が目立ってしょうがない。成人式の時だって、自分は真っ先に見つけられるのに、声をかけて来た相手の名前は思い浮かばない事がままあった。そういえば、成人式で八戒を見かけていない。港町にポツンとある高校に通うなんて、地元の学生くらいだろうに。

「……お探しの方ではないと思いますが。」

「そんな…………。」

　そんなはずないだろう。他人の空似にしたって限度がある。彼はたしかに、三年間同じクラスで過ごし、一度だけ雪の日に話した同級生だ。その証拠に、卒業式で最後に見た姿と変わらない。良い声も変わらない。いっそ変わらな過ぎて驚くくらい、十八歳の時の彼、そのままだった。

「だって……同じ顔……。」

「同じ顔ならここにもいますよ。墓石の下ですけど。」

「え……。」

　いや、たしかに港町を離れこそしたけれど、もし同級生に不幸があったら、叔父から連絡が来るはずだ。小さな町だ。そのあたりの結束だけ妙に強固だと思う事がある。母の時だって、会った事のない人ばかりが来た。

「姉です。」

「………… ―――― 。」

「あからさまにホッとしないでもらえますか。双子の姉なんですが。」

　昔きいた心地良いそれと同じ声が、少し不機嫌そうに歪んだ。

「…………わるい、ゴメン。」

「僕は悟能といいます。あいにくですがあなたの言う名前ではありません。」

「…………申し訳ない。」

　海から吹き上げる風が、彼の首元さらって、黒髪がチカチカと太陽の光を弾く。その向こうで、風を捕まえた海鳥が、高く飛んで行く。空の中に落ちていくみたいだ。

　静かになったのを見計らうように、花を入れ終わった彼は、墓石の前にしゃがみ手を合わせた。抑揚のあるそれは、祝詞のようだったけれど、古い言葉の意味まではわからなかった。ただ、岩に砕ける波の音とよく合う声だった。風に乗ってその断片が散らばっても、凛として、見失わずにいられそうだ。

　やっぱり、記憶にある声と同じだ。五年の空白も感じられない。おかしなほど、覚えている声と同じだ。

「……声まで似るなんて。」

「骨格が似ているんだったら、同じ声でも不思議はないと思いますよ。」

「そういうもん？」

「そうですよ。……探し人ですか？」

「いや、そういうわけじゃなくて。」

　海を背に喋る彼に、古い記憶が呼び覚まされる。雪の日の、バス停で一度喋っただけなのに。

「そうですか。」

　会話が途切れた時、無言のまま遠くへ視線をやるのも同じだった。気配を消し存在しないように生きたいと言った彼。その言葉の真意を聞けるほど、親しくはなれなかった。それとも、さして親しくもない通りすがりの自分だったから、零せたのだろうか。

「大丈夫ですか。」

「……え。」

「真っ青ですよ。」

　視界が暗くなったかと思うと、ヒヤリとした指先が、頬に触れた。パタパタと足元に汗が滴って、染みができた。

　おかしな程視界が揺れ、縁でも作るように外側から暗くなっていった。

海鳥の声は、バスの鳴らすクラクションに似ている。

　サクサクの足を踏み入れるのは、新雪ではなく、白いこの島の浜か。

　いつの間に崖を降りた？

　手を引くのは誰だ？

　海を割ったような白く細い砂の道を歩く、人影が見える。

　連れ立つように歩く二人。

　いつもは海に隔てられた小さな島に向かっている。

　影の片方は自分だった。墓地で会った青年の後ろについて、白く顔を出した道を歩いていた。なぜそれを、別の場所から見下ろしているのかもわからなかった。小さな島に続く細い道は、引き潮の時にしかできないから、もし見つけても渡るなと言われていなかったか。

　満ち潮で閉じこめられるからと。

　行っては駄目だと叫んでも、海を波立たせる風のせいで、声はかき消されてしまった。

　誰かの冷たい指が、頬に触れた。聞こえてくるのは、墓地で聞いた不思議な抑揚の祝詞。濃い潮の匂いがする。波の割れる音がやけに近い。手のひらには少し毛羽立った畳の感触。薄く目を開けると、知らない家の中にいた。電球の吊られた黒ずんだ太い梁が見える。障子越しにも、まだここの日差しは強いと思った。

　ふと、手の影が日を遮った。

「起きられますか？」

「…………、……え、ここ、……どこ。」

「僕の家ですよ。」

「あんた島の人？」

「そうですよ、まあ……正確には違うのかもしれませんけど。」

「…………。」

　半身を起こすと、彼はスタンと障子戸を開けた。一瞬目が眩む。手で影をやると白飛びした風景が少しずつ色を持ち、捻じれ絡まった木々のに埋もれるような窓辺から、幹や蔓の影の向こうに、浜辺で見るのとは違う深い青の海があった。

「びっくりしましたよ。家に入るなり倒れるんですから。」

「…………あんたが連れて来たんじゃないの？」

「まさか。あなたが勝手についてきたんですよ。僕を違う誰かだと言い張って。」

「…………は？」

「あなたみたいな大男、担いで来れるわけないでしょう？」

「あんたも大概でかいと思うけど？」

「あいにく非力なもので。」

「…………。」

　麦茶の入ったガラスコップが手渡された。一口含むと、霧散でもするように吸い込まれ、自分の身体がひどく乾いている事に気づいた。欲するままそれを飲み干す。ちょうどよく冷やされたそれは、コップになみなみと注がれていたはずなのに、見る間に消えていった。

　ホッと息をついて、くるりと見回す。

　梁だけではなく、柱も、障子の桟も、古く。聞けば、ここに住んでいるのは彼一人だと言った。

「あ、……戻らないと。」

「無理ですよ。」

「…………え。」

「見ればわかりますよ。」

　招かれるまま、土間に落ちていた靴を引っかけて、足場の悪い崩れかけの石段を上ると、さっきまでいたはずの島が海の向こうにあった。白い崖の上の墓地に飾った花の色がわかるほど近いのに、左右から寄せてくる波が、自分たちがいる半分岩場のような小さな島を、完全に切り離していた。

「トンボロ現象ってわかりますか？」

「トンボ……なんて？」

「引き潮になると、ここと島をつなぐ道ができるんです。次に引き潮になるのは深夜ですから、明日まで諦めてください。」

「夜の引き潮は？」

「暗すぎます、やめてください。危険です。」

「…………。」

　下を覗けば、浜まで伸びる石段の下の方は水に浸かって、波が寄せる度に海水が上がってい来るのが見えた。

「…………。」

「僕はちゃんと止めましたよ。」

　海を割れるものならどうぞ、ご勝手に。そう、冗談めかす彼に、諦めて船着場にいるはずの叔父に連絡をした。荷物があるから明日改めて迎えに来ると言う業務連絡じみたメッセージの後、しばらくして「は？おまえ、ちっさい方の島にいるの？マジなの？お行儀良くしとけよ？」と、あまり見たことのない文面のメッセージが届いた。独り立ちをして久しいけれど、未だに叔父にとっては小さい甥っ子らしい。

「どうかしましたか？」

「いや、叔父さんが。ここの連絡船と配達員をやっているんだけど。」

　見せた端末の文面に、なぜか彼は小さく笑った。

「宿代がわりに、名前を教えてくれませんか。」

「……沙悟浄……です。」

「悟浄さんですね、わかりました。」

　傾き始めた日が、暖かい色で差し込む。

　やわらかくなった日に照らされる顔は、雪の日に見たクラスメイトに、やっぱり似ていた。

「一人で住んでるなんて、軟禁まがいじゃないのこれ。」

「陸の人にはそう見えるのかもしれませんね。」

「実際そうじゃないの？」

「……たぶん、僕と、あなたの尺度は違いますよ。」

　面識のない人物と話すのはあまりないと言う彼は、思っていた以上に饒舌で、風呂のほてりを覚ましながら、小さな島が、ここに祠を置き祀るのは、生きていくために必要なのだと話した。土地がやせていて、ひと時代前はほとんど海からの恵みで生きていた事。少しでも多くの船が帰ってくるように、祈ったのだと。

「もう、海に船を出す人なんていないだろ。」

「あなたは合理的ですね。それでも祀らないと気が済まないんでしょう。誰かが守っておかないといけないんです。」

「輪番にすれば？」

「回覧板みたいにできると思います？」

「…………理解できない。理解したくないのかもしない。」

「あなた、この島嫌いでしょう？」

「………………。」

　図星を指されて何も言えなかった。外れ者扱いなどどうでもいい。子供ながらに母を悪く言う大人たちが嫌いだった。何も知らないのに。島の外の男と駆け落ちした事を悪し様に言うのが許せなかった。

「別に好きになれとは言いませんよ。」

「…………。」

「眠らなくていいんですか。明日港に帰るんでしょう？船で酔いますよ。」

　海にせり出したベランダの欄干は、身体を預けようとすると、ぎっと変な音がした。「気を付けてくださいね、この島から向こうは深くなってますから。」笑いながら、夜風に吹かれる彼は、ベランダに寄りかかっても、不思議なほど何も音をたてず、月に青白く照らされたその顔は、現実味がなかった。

　飛んで行けと言ったら、飛んで行きそうだ。彼もそれを厭わないような気さえして、畳の上で遊んでいる足首をつかんだ。

「なんですか。放してくれませんか。」

「…………。」

「寝物語に、この島の、古い話でもしましょうか。」

　昔この岩場に、船人を酔わせて、引きずり寄せては喰いあさる人魚が、若い漁師と恋に落ちた。けれど、彼を慕う心と食べてしまいたいという欲に板挟みになった人魚は寿命の短い漁師と添い遂げる間際で、自分の肉を喰わせて生き返らせた。

「……いい話じゃないの？末永く幸せに暮らしました。ハッピーエンドだろ。」

「食べるために生き返らせたのだとしたら？」

「え…………。」

「よく言うじゃないですか、人魚の肉は不老不死とかそういう話。」

「食べたら死ぬだろ、その漁師。」

「死なないんです。喰われても。生き続ける漁師を喰い続けて、最後に人魚は狂ったそうです。まあ、それで海は荒れて、船人は巻き添えになりますよね。」

「え……いい迷惑。」

「だから、ここに祀っているんですよ。表向きは住吉三神になってますけど。離島ならありそうな話じゃないですか。」

　内緒ですよ、たまに島に調査に来る学者先生にも話していないのだから。そう言って、口元に指を立てた彼は、こちらの肩をつかむと、

「僕はその人魚の生まれ変わりだそうですよ。だからここに閉じ込めておくんです。」

　他に聞いている人など誰もいないだろうに、かすかに聞こえる声で耳元に吹き込んだ。肩をつかんでくる手は指が食い込んで、おかしな程痛かった。そのまま耳を喰い千切られはしないだろうか。熱帯夜のはずなのに、汗に濡れた背中が冷えたような気がした。身震いをすると、あっさり手は退いていった。

「冗談ですよ。真に受けないでください。」

　どこまでが冗談なのかわからなかった。自分と同じくらいの年頃の、クラスメイトによく似た青年が、ここで孤独に狂わないのだろうか。

「あんた寂しくなったりしないの？」

「その感覚が、僕にはわからないんです。配達の方とも会いますし、島にも行きますし。」

　もし、人魚の生まれ変わりなのだとしたら、その心地良い声にも納得しただろう。

「綺麗な髪の色ですね。こんな色の花が、ここにも咲きますよ。」

　そう言って、彼は髪をさらった。

　誰も彼も、そうやって呪いをかける。

いつか幾重にもなって、動けなくなるだろうに。　

◇　　◇　　◇

「しばらく見ないうちに…………おまえ、髪伸びたな。」

　久しぶりに会った叔父は、少し驚いたようだった。夏以来、切っていない。傷んでいるのは承知していたけれど、一度だけ会って、一晩宿を借りただけの彼がさらっていった髪を、どうしてか切れなかった。

「温かいよ。冬は、耳も隠れるし。」

「仕事先は？」

「別に何も？食品系のクライアントと顔を合わせがある時に結ぶくらい。」

「やさしいねえ。」

「楽しい人だよ、俺の上の人。……ここに来ると帰って来たって感じがする。」

　駅からてくてくと海沿いへ向かいながら、潮の匂いを嗅いだ。夢の中でも、思い出をひっくり返した時でも、いつでも再現できるほど、馴染んだ匂い。海から吹き付ける湿った北風が、頬に痛い。そろそろ、雪が降ってもいい頃だけれど。今年中に降るだろうか。

「雪、降った？」

「んー、……まだ。このへんは変わりやすいから、天気予報も大変だろうよ。」

「おじさん死活問題でしょ。」

「そうねえ……。」

　重くのしかかるような灰色の雲が、渦でも巻くように空に広がる。もうひと吹き。海から水を吸い込んだ北風が吹き寄せれば、この町にも雪が降るだろう。

「おまえ、雪好きだった？」

「こっちはあまり降らないから。」

「からっ風か。そっちは。」

「朝顔洗う時びりびりするよ。」

　カニがあるから鍋にしようと言って、市場で野菜を買い込むついでに、イカの一夜干しを酒のアテに買った。成人して何年か経つけれど、叔父はまだ見慣れないらしくぎょっとするのがおかしかった。酒が飲めるようになるのを楽しみにしていたのはそちらの方なのに。

　防波堤に寄せる波音は、少しだけ低く唸るような音が混じっている。沖の方はたぶん荒れているだろう。

　先にアパートに着いた叔父が、郵便受けに刺さった夕刊を取って早くしろと促す。そうやっていつも蓋を開けないから、時々大切な連絡を見落とすのに。郵便受けの蓋を開けると、茶封筒が一枚入っていた。ダイレクトメールにしては素っ気ないし、手書きで叔父の名前が書いてあった。

「おじさん、手紙が来てるよ。なんちゃらかんちゃらユニバーシティー。」

「どこだよ。」

「知らない。けど、大学からダイレクトメールなんて来ないでしょ？」

「……あー、適当に置いておいて、後で見るから。」

　そんな風に言っても十中八九忘れそうな気がしたので、鍵を入れる皿を重しにして玄関に置いた。これなら嫌でも目に入るだろう。

「よかった、雪降って来た。セーフ。」

「あ、待って、雨戸、俺閉める。」

　暮れかけた町に灯りがポツポツと点き始め、照らされる雪は橙や紫に染まりながら、はらはらと降り出した。雨戸を閉めようと身を乗り出すと、マフラーに雪がくっついてきた。よくよく見てみると、六角形の綺麗な結晶のそれは、小さな透明の表に一瞬だけ虹色を映し、溶けていった。

「あー、雪が降ったら、船出すのキツイ。」

「いい、いい、お盆まで行く気ない。」

「そう？」

「うん。」

　マフラーとコートをかけると、申し訳程度に置いてある姿見に自分の顔が映った。ひとつに束ねられるほど、伸びた髪。

　海に囚われてなどいないのに、切る事のできない自分が、

　情けない顔をしてこちらを見ていた。

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