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　祖母は、台風が来るたびに寝物語の後で、自分は人魚の子供を産んだのだと微笑んだ。そして、白い道でつながる沖の祠で、いつか花喃も人魚に出会うのだと言った。年に数回荒れ狂う、風雨と割れる波の音に怯える花喃と自分をタオルケットでくるみながら、いくら昔話の人魚が嘆いて海を荒らしても、あの岩場で人魚と睦まじくしている限り、この島が波にのまれることも、崩れることも無いのだと頭を撫でた。

　そして、最後に、この話は内緒だと指を立てる。

　いつもそうだった。

「ねえ花喃、おばあの話信じてる？」

「…………信じないと、おばあが泣きそう。」

　答える姉は眉を少しだけ顰めて、それでも笑っていた。

　中学に上がった夏、サンダルを防波堤に残して、花喃は消えた。

　祖母が、姉は人魚に喰われた、身体が欠片も見つからないのはそのせいだと、弔問客のいなくなった床の間で、さめざめ泣いた。

　慰める以外、何ができただろう。

　代わりに、あの祠に自分が行くからと言っても、年若い女でなければ駄目なのだ、この島は怒りを買って消えてしまうと、なお嘆く祖母の背中を撫でさする他に、できることなど見つからなかった。

「ねえ悟能くん、君が初めてなんだよね？」

「え……？何がですか？」

　配達員と一緒にやって来た先生は、さらさらとメモを走らせながら、唐突に話を振る。

「いや、男の子で祭司をやるのは記録だと君が初めてで。」

「そうなんですか？祖母より前はわからないんですけど。」

「男の子がなるのが、ねえ、……解せなくて。」

「まあ、巫女とは違いますし。先生は見てたじゃないですか。僕が沖の祠に移る時の祭事。」

「そうなんですけどね。君が食べたの、魚の肉ですよね？おばあ様が人魚って言ってらしたけど。」

「そうですよ。獲れるわけないでしょう、見立てているだけです。」

「名前を貰っていましたよね、「悟能」って。元は別の名前があったんですか？」

「ええ、今は使わないですが、ありますよ。」

　数日暮らせるだけの食料を配達人から受け取って、欲しいものを書いたメモを渡すと、台風の季節になる前に、備蓄をチェックしておくように言われた。覚えているだけの水と、缶詰の量を話すと、じゃあ後はこれくらいかと算段をつける。慣れたものだ。

「ちょっと、捲簾、邪魔しないでくれませんかね。」

「あのね、こっちはこの子のライフラインなの。」

「大丈夫ですよ先生、まだ引き潮ですから。」

「学校はどうしてたんですか？この島は分校もないですが。」

「中学までは隣の島の分校に。高校は港町の方の学生寮の付いた所に行ってましたよ。」

「…………へえ……。」

「何か引っかかることでもありますか？」

　帳面をとんとんとペン先でつついている。相変わらず好奇心があちこちに飛び散る人だなと思った。うっかり口外してはいけない事まで口を滑らせてしまいそうで、焦る事がある。この手の人には隠し立てをしないで話せる事は全部話してしまった方がいい。明かせるだけの手札を出してしまえば、たぶん満足する。あとは野となれ山となれ。

「あ、祠を見せていただくことは？」

「できますけど。今日は無理です。頂いた荷物を持って行って整理をしなければならないので。」

「悟能くん、これ全部持てる？」

「僕、そんなに非力じゃないですよ。」

「捲簾が半分持ってあげればいいじゃないですか。」

「帰れなくなると困るので、僕だけでいいですよ。」

　少し苦笑しながら、配達員の捲簾さんが、次の質問を考えている先生の方を見ていた。

　時々、この島には学者を名乗る人が住み着く。この先生の前は歴史の先生で、北からくる海賊がどうの、神風がどうのと語り聞かせてはくれたけれど、難しすぎる言葉のせいか記憶は朧だった。

「今度また、お話を聞かせてください。」

「はい。」

「気をつけて行けよ。」

　人の好い配達員はいつも明るい笑顔をよこしてくれる。子供の頃からいつも姉と一緒にいると、大人達の神妙な視線ばかり感じていた自分には、それがとても新鮮で、嬉しかった。

　連れ立って浜の向こうの道へ戻って行くのを見送り、両手の荷物を抱え直して、岩の塊まで伸びる細く白い砂の道に踏み出した。

　ひとりになると、高く飛ぶ海鳥の声が、やけに大きく気こえるような気がした。

◇　　◇　　◇

　彼の髪は、椿の色をしていた。冬に深い緑の中に咲く様は、黒ばかりの学校で目を引くそれに似ている。悪目立ちするわけでもなく、冬の景色を彩る濃い赤。飄々と周りに溶け込み、いわゆる高校生らしい生活を送っているような彼を、羨ましく思う事があった。

　タンタンとボールの弾む音に、中庭を見下ろせば、数人の男子に混じって、バスケットボールをしていた。彼は帰宅部だった気がするけれど、器用にボールを扱っていて、部員の方が振り回されているようにも見える。

　吹き込む風につられて視線を机に戻す。さっきから、進路調査のプリントが埋まらない。進学・就職以外の選択項目が欲しい。島に帰る。島で守り人の真似事をするのは、はたして就職だろうか。一度、神職の専門のある学校を調べたけれど、島にあるのは、庁には属しておらず、別段資格がいるものではなかった。住吉三神を便宜上祀っているだけで、土着信仰由来のそれは、神職というより、人身御供に近い気がする。「家業を継ぐ」で合っているのだろうか。

　姉の代わりに沖の祠に入ると決まった時、高校まで行かせて欲しいというワガママを、渋られた理由がよくわかる。島の外を知ると、自分が送って来た日常は、時代がかっていて、異質だった。隣の島の分校に通っていた頃は、そんな風に思いはしなかった。島にいた時、外から来るものはすべて「島のものではない何か」という認識をしていたけれど、栄えた港町の学生に混じると、自分が「陸の者ではない誰か」だった。ワガママを通していなければ、その認識の差すら気づかずにいたと思うと、少しヒヤリとする。

　吹き込む温い風に、潮の匂いがかすかに混じっていた。壁に留められた掲示物がサラサラ揺れ、祖母の家の庭にある笹を思い出した。

　七夕の時に吊るす短冊には、「字が上手くなりますように」やら、「料理がうまくなりますように」やら、近い未来の事ばかりで、いわゆる将来の夢というのを書いたことがない。姉は既に決まっていて、自分はそれを支えるものだと思っていて、そこで思考が止まっていたのだと気づくのには、随分と時間がかかった。

　結局、第一志望だけ埋めて、提出することにした。職員室のある棟に続く渡り廊下を歩いていると、さっきまで中庭にいた赤い髪の彼が、横を走って行った。その軽い足取りを、やっぱり羨ましいと思った。

　進路希望を見た先生は、なんとも言えない顔をして、その紙を一度裏返すと、隣の開いている席を勧めた。

「君の出身の島については、承知はしています。あなたの家の事も。島の上役という方から、お手紙も頂きましたし、お姉様の事も伺いました。その上でやっぱり、君に選択肢がない事を理不尽に思いました。君がそれについて疑問を持たないことも不思議でしかたがないです。僕の主観ですが。」

「…………。」

「性分なんだろうけどねえ、高校まで学びに来てくれたのは嬉しいし、これからも学んでほしいと、どうしても思ってしまうんです。県内でも駄目ですか。」

「……調べは、したんです。通信制の大学を。」

「どこか見つかりましたか？」

「あ……いえ、向学心なんて大したものは持ち合わせていないのに、好奇心だけで学んでいいものか僕には、わからなくて。資格が欲しいわけではないですし。」

「むしろ、好奇心がないなら、進学は勧めません。」

　少しだけ表情を崩した先生の、視線の先に、進路指導教諭と赤い髪の彼がいた。都市部の専門学校についてなにやら話をしている。

「羨ましいんですか？沙悟浄君が。」

「……どうしてですか？」

「そういう風に見えただけです。」

「…………。」

「私は、君が自分で考えた未来なら、口は出しません。ただ、もし君が考える前に決められて、ただ従って諦めているだけなら、口出しをします。手紙をくれた方にお返事を書いてもいいですし、おばあ様の所にお話をしに行きます。」

「それは心強いですね、ずいぶん。」

「あ、誤解しないでください。君の島のしきたりに文句を言いたいわけではないです。」

「いいえ、話を聞いてもらえただけで、僕はありがたいと思っています。」

「自分でもう一度悩んでください。第一希望を変えろとは言いませんから。」

　戻された進路調査のプリントは、改めて見ると、やけに殺風景だった。そして、あまりにも考えなしの自分に呆れた。

　自分で決めていたものが、こんなにあっさりと揺らぐなんて。

　我ながら情けなくて、気持ちが悪くなった。

　内緒だと、祖母が立てた指を、へし折ってしまおうか、まだ迷っている。

　もし、僕が正論の塊か何かだったら、迷うことなどなかっただろう。

　思い出せば出すほど、繋がっていく事柄は、好奇心で暴いていいものなのか、わからない。愛着が邪魔をする。同じくらい猜疑心もあると言うのに。喉元で止まってしまう。

　港町は、こんなにざわついて、色々な音がするのに、そのどれもが素っ気なく突き放すようで、島の沈黙が恋しくなった。

　結局、散々悩んだ末、何も変えずに提出すると、先生はじっと僕の顔を見た後、

「わかった。」

　と、それだけ言った。

　好奇心のために暴くなら、せめて一人で暴いて死ぬまで抱えていればいい。

　陸にとって異質な者として、気配を消すように過ごした三年間は、深い海の底にでも潜っているようだった。

　海の底までわざわざ喋りに来たのは、先生と、赤い髪の彼くらいだった。

　最後の年は大雪で、卒業式の日も、まだ道の端に氷のように固まった煤けた雪が残っていた。島も今年は積もっただろうか。海が荒れてしまって、しばらく連絡船は欠航している。

　任された答辞は、何度も練習したこともあってか、寒さで震えそうになりながらも、終わりまで淀みなく出て来た声に安心した。

　つらつらと書き綴った紙を折りたたみながら、もう一度、体育館を見渡した。黒の学ランに、セーラー服がずらりと並ぶ。

　その深い紺と黒の中に、咲くように灯る赤を、忘れることはないだろう。

◇　　◇　　◇

「配達員さん、悟浄があなたの甥っ子だななんて知らなかったんですが。」

「わざわざ言う必要ある？俺「おじさん」って呼ばれてるって。いやだよ。」

　船荷を貰いながらぼやくと、辟易とした声が返ってきた。

「何か言ってました？」

「おまえのところで世話になったんだよな、ありがとう。」

「海に投げ出すほど外道じゃないですよ。」

「おやさしい事で、なによりです。助かりました。」

「それで、何か言ってませんでした？」

「何かって？」

「だって、この島はかわっているでしょう？」

「そんな事は承知済みだよ。あいつも俺も。」

　吐いてしまった嘘はどうやらそのまま通ってしまったらしい。今さら訂正する気も起きないけれど。

　サクサクと荷物をさばく彼は食料の入った箱の上に、大きな茶封筒を一つ、郵便だと言って乗せた。表に大学の名前の印刷してあるそれを裏返すと、天蓬先生の名前が書いてあった。開けてみれば、出て来たのは簡素な作りの冊子で、添えられた一筆箋に「滞在中は貴重な話をありがとうございました、悟能さんが祭司の引継ぎを行った時のレポートをまとめましたので、お納めください。天蓬」と書いてあった。

「捲簾さん、天蓬先生からです。」

「……ん？」

「島の説明に、連絡船が載って……これ捲簾さんじゃないですか？」

「え……、俺なんも聞いてないんだけど。」

「滞在記録くらいまとめるでしょう、冊子にするかは別として。研究をしている先生ですし。」

「博士ってやつですか。」

「そうなんじゃないですか？」

　ぱらぱらめくっていくと、祭事の説明の後に、島で聞き取った人魚の伝承がパターンに分けてまとめられていた。航海の安全を願うもの、海の豊饒を願う物、そして台風や海賊などの外敵からの保守を願う物、それらのどこにも、祖母が語ってくれた話はなかった。やっぱり内緒の話らしい。そんな祖母も冬に亡くなってしまった。穏やかな寝顔のまま、時を止めたような最期だった。

「こうやって記録にされると、なんだか嬉しいですね。」

「そういうものなの？」

「だって、遅かれ早かれ、この島は人がいなくなって、終わります。」

「……おまえ、そんなこと考えてるの？怖っ…………。」

「しかたないでしょう、一番若いの僕ですよ？」

「カノジョいないの？」

「いたら籠りませんよ。あなたこそ先生とどうなったんですか？」

「…………なんで、それ知ってんの。」

「あ、やっぱりそうだったんですね。仲がよかったから。」

「俺、カマかけてくる奴、好きじゃない。」

　冗談めかして拗ねた後、笑う顔は、赤い髪の彼に似ていた。

二人で、何がそんなにおかしいのかわからないけれど、しばらく、砂浜で笑ってしまった。

　笑い声が吸い込まれていく空は、薄い春の霞のせいで、淡い色をしていた。

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