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　なぜ、自分はこの男の引っ越しの荷物を積んでいるんだろう。ここ最近めずらしく、散らかしていないと思っていたら、これだ。目の前の彼は、いつもの白衣ではなく、柔らかい色のジャケットを着て立ってる。

「お客さん、どこまで行くんです？」

「ああ、大学に戻るんです。すみませんねえ、四月から講義があるので。」

　ヘラりと取り繕うような笑い方が気に食わない。

「いつ決まったの？」

「夏頃ですかね、打診がありまして。」

「なんで何も教えてくれなかったの？」

「伝えたつもりでいたんです。ただの記憶違いですよ。」

　スーツケース一つと段ボール三つ。散らかっている印象があるのに、不思議と荷物は少ない。家具は備え付けだし、生活に必要なものは最低限置いてあるから、妥当か。来た時と変わらない量の荷物だ。

「それで、何か成果は？」

「引継ぎに立ち会えたことですかねえ。僕みたいな島外の者も見られるとは思ってませんでした。」

「そりゃあよかったね。」

「秘祭や奇祭の方がウケはいいんですけどね。」

「都市伝説みたいな？」

「ええ。まあ、そうやって書き立てるのは僕の仕事ではないんですけど。」

「…………へえ……。」

　穏やかな海を割くように、船を進める。島から離れてすぐに、遠浅の海が終わり、一段深い色になる。明るい青緑から、藍色に切り替わる、その瞬間を見るのが好きだった。先は少し身を乗り出して島の方を見ていた。

「おい、あんまり頭出さないでくれよ、危ない。」

「……綺麗ですね。」

　エンジン音にかき消されそうなほど、小さな呟きだった。何年も前、初めて彼がこの船に乗って海を渡った時もそんな事を言っていた。今となっては懐かしい。

「ねえ、捲簾、相談に乗ってくれませんか。港に着くまででいいので。」

「……なんの？」

「僕、恋人にお別れをしないといけないんですが、なんて言ったららいいかわからないんです。」

「…………は？どういう意味？」

「文字通りですが？。」

「それはもう決定してるわけ？」

「そうですね……僕はマメとは正反対なので。遠距離は向かないと思うんです。」

「…………。」

　なんて、この男はずるいんだろう。運転席から離れるわけにもいかず、逃げ場がないのをわかって言っているのなら、胸倉を掴んでしまいたい。大事なことをろくに言わず、心の準備もさせてくれないのか。挙句、こっちの考える余地もなく「ハイ、サヨウナラ。」、関係はそちらで勝手にご破算か。一人で決めてくれるな。

「あー……、こんなことならあなたに突っ込んでおけばよかった、不公平じゃないですか僕ばっかり。」

「なんの話だよ。」

「夜の話です。」

「別れる原因なの？ソレ。」

「いいえ、ちょっとした後悔です。やっておけばよかったなと。」

「…………やったら、気ぃ変わる？」

「え、いいんですか。道沿いにありましたよね、そういうモーテルみたいなの。」

「残念ですが、港に着いたら、俺は配送のシフトに入ってるんで。」

「休憩時間……。」

「はいはい、欲求不満ならとっとと都会に戻って適当に発散してください。解散。」

「聞いてくださいよー。僕の恋人が冷たいんですよ、別れるしかないですよね、これ。」

「誰と話してるんだよ。」

「あなたとですよ。二人しか乗ってないでしょう？」

　海の色が今度は少し明るい青に変わる。慣れたその色に、頓珍漢なやり取りをしながらも、無事に帰ってこれたのだと、ホッとする。感情的になりたくても、運転中にそんな事できるわけがない。

「で、どうしたいの、おまえは。」

「別れる為の、まっとうな理由をください。」

「ねぇよ。……港に着くからちょっと黙れくれ。気が散る。」

「…………ずるい人ですね。」

　なんとでも言えばいい。

　港を出て行こうとする、漁船と何隻もすれ違い、たどり着いた桟橋に船をつける。彼は黙ったままで、ジャケットのポケットの手をつっこんで、不服そうにパタパタと裾を遊ばせていた。

　沈黙以外に、この男を黙らせる方法を、未だに思いつかない。

　◇　　◇　　◇

　彼の煙草は、ひどく甘い香りがした。港の小さな倉庫に届けられると、その匂いですぐわかる。一日に何箱飲んでいるのだろうか、結構な頻度でそれは届けられる。船着き場で初めて対面した時はわからなかったけれど、島でいつも引っかけている白衣には、洗っても落ちないほど、その甘ったるい匂いが染みついていた。

「ねえ、おじさん、煙草変えた？」

「変えてないけど？」

「ふうん……あ、ゴメン、なんでもない。」

　都会へ出ても盆暮れに律儀に帰ってくる甥は、成人した年、酒と煙草を覚えて帰って来た。誰に教えてもらったのかと聞くと、同じアパートに住んでいる友人だと言った。せっかく晴れて成人して帰って来た正月は、いい酒を飲もうとビールも日本酒もいつもより良い物の用意していたのに。あれか、クリスマス頃に、訳の分からないメッセージが来たのは、酔っていたのか。

「そういうことは、言っておいてくれよ、びっくりするから。」

「…………ちょっ、痛い。」

　指で弾いた額を擦りながら、端末をいじる甥は、「初めて飲んだビール」と「初めて飲んだ煙草」の写真を見せてくれた。写っているピースの見知った手指でない方は、きっと教えてくれた友人だろう。賑やかそうな居酒屋の一画だった。

　都会へ出て、一人で生活に馴染んでくれているのが、嬉しい反面、少しだけ寂しいような気がした。

「楽しんでいるようで、何より。」

「時々……こっちが恋しくなることがあるよ。」

「まあ、元気な顔を見せてくれれば、俺はそれでいいんだけど？」

「海の音も匂いもしないんだ。」

「そりゃ都会だからな。」

「出て行かなければ、この町を懐かしいなんて、気づけなかったと思うよ。」

「よし、美味いもん食おう、肉でも魚でも。」

「魚で。」

　目の下にできていたクマに少し心配をしたけれど、学校の課題が多くてパンクしそうだったのだと、相変わらず邪気の無い顔で笑った。件の友人も同じ学校なのかと聞くと、美容師の学校だからと首を振った。たまに練習台にして、切ってくれるらしい。

「今度見せてよ。」

「うん。」

　魚屋に向かって海沿いを歩きながら、振り返った甥は、少し見ない間に、精悍な青年になっていた。コンプレックスの塊で、潰されそうになっていた思春期の名残りも、もう見えなかった。

「なあ先生、俺、煙草臭くない？」

「さあ、僕に聞くのは適切じゃないと思いますよ。それに、吸いながら聞いてくるのもどうかと思います。」

　もそもそと毛布をかぶったまま、隣に座った彼は、文机の上に出ていた煙草の箱に手をのばすと、一本咥えた。点けてくれと言わんばかりの目でこちらを見てくるので、渋々ライターを灯した。差し出した指に当たる息がくすぐったい。

「気にしているんですか？禁煙の予定でも？」

「いや、甥っ子に煙草を変えたのか聞かれたんだ。」

「ああ、僕の煙草ですか？匂い着きます？」

「言われるまで思い当たらなかった。」

　すんすんとこちらの肩の辺りを嗅いだけれど、不思議そうに首を傾げる。

「あー……繊細だからかな、あいつ。」

「一緒に夜釣りをしていた子ですか？」

「そうそう。お盆に墓参りに来るようになったけど、見てない？大きくなったよ。」

「……ん？この島の出ですか？じゃあ、あなたも？」

「いや、あいつの母親と俺で島を出たから、あいつは港育ち。俺もあいつもこっちじゃカウント外。」

「……まあ、こじんまりしてますから。」

「先生はここにいてしんどくないの？」

「自分がよそ者だという自覚はありますから、そう見られてるのはわかりますよ。ここにずっといるわけでもないですし。慣れているので。」

「…………。」

　丘の上のこの家は、どこかの大学に借り上げられていて、知る限り、天蓬で三人目の「先生」だった。歳も近いせいか、話しやすく、釣りのついでにたまに入り浸るつもりが、いつの間にか世話を焼くようになった。片づけても、すぐにとっ散らかる。夏なんて、風を通すせいで障子を開け放った所から、散乱した本やメモと一緒に眠っているのが見えた。一つの大きな本棚に収まるくらいの本しかないのに、他の畳の部屋に何もないせいで、書斎の散らかりが、いっそうひどく感じる。

「どのくらいいるとか、決まってないの？」

「とりあえず一年、延長して五年ですかね、大学にもよると思いますが。」

「先生は？」

「決まっていませんが、僕は分野が分野なので少し時間がかかるかもしれません。」

「なんの先生なわけ？本棚の本、分野がバラバラ過ぎて文系って以外わからない。」

「民俗学と伝承研究でなんとなく伝わりますか？」

「………昔話？」

「ええ。聞き取りをする時に、よそ者のハードルはちょっと高いんです。」

「へえ……。」

　そういえば、小島に住む子の所に届け物がある時は、たまについてきて、荷物の受け取りの間だけ、その子に話を聞いていた。昔話を聞いているようには見えなかったけれど。

　久しく無人だった、小島に入ったのは、悟浄と同じ歳くらいの男の子で、港町から連絡船で送った時、船の縁に肘をついてじっと港の方を見ていた。声をかけづらい、硬質な雰囲気の子だった。その少し大人びて達観したような表情が、島に降りた途端、年相応に、柔らかく砕けたのを、今でも覚えている。

「見つかりそうなの？おもしろい事。」

「祭事の記録は付けたいですね。せっかく拝見できましたし。」

「いつでも帰れるってこと？」

「どうでしょう、もっとあの子に話を聞きたいんですけど。まあ、ガードが固い固い。」

　苦笑と一緒に、灰皿にパラパラと吸いさしから灰が零れた。ふと、沈黙が訪れた部屋に、煙を吐く息の音が聞こえた。

「たらしだってわかってるからじゃないの。利発そうだし、あの子。」

「たらしじゃないですよ、失礼な。」

「自覚なしかよ。」

　閉められた雨戸の隙間から、青白い光の筋が畳に落ちていた。もう少し喋っていたいけれど、島の朝は早い。端末を見れば朝一で港に戻る便を出すまで、あと二時間を切っていた。

「じゃあ、船の準備あるから行くわ。」

「勤勉ですねえ。」

「先生ほどじゃないけど？」

「嫌味ですか。」

「違うよ、そのままの意味。邪推するな。」

「…………。」

　聞こえているはずの波の音が、一瞬静かになった。凪ぎの時間だ。シャツのボタンを留めているうちに、差し込む光は青からコロコロと色を変えた。

「じゃあ、また、煙草を届けにくる時に。」

「……ええ、お気をつけてください。」

「はあい。」

　煙草で目が覚めたのか、もそもそと動き出した彼を置いて、表へ出た。庭先から見える海に、横から昇る太陽が砕けて散らばっていた。

　ここから見る朝焼けが好きだった。

　打ち明けたら、寝起きが悪くても、起き出して、見てくれるだろうか。

　海辺の道へ降りて行くと、船着場まで続く道が、朝焼けの朱色に染められていた。

◇　　◇　　◇

  身に覚えのない大学の名前の入った封筒で送られてきたのは、天蓬からの手紙だった。

　簡単な時候の挨拶の後、試験期間が終わったら、フィールドワークをしにこちらへ来る事、島への連絡船を頼む予定でいるのでその時はお願いします云々という事が書いてあった。

　端末の番号もメールアドレスも交換しなかったことに気づいた時は、もう彼の乗る列車の出る時刻だった。倉庫の中で盛大にため息をついてしまったのは苦い思い出だ。彼もそれを覚えていたのか、署名の下に、電話番号と、メールアドレスが書いてあった。

「おじさん、どうかした？」

「ん、先生が。また来るって。」

　顔を洗った悟浄が、脱衣所から顔を出した。その髪は、やっぱり長い。「よかったね。」と、笑った甥は髪の毛を括りながら、港の朝市でご飯を食べたいと言った。

「あら汁飲みたい、あら汁。」

「いいよ。早くコート着ろ。」

　一晩降り続けた雪は、踏んでしまうのがもったいないと思うほど、きれいに染み一つなくすべてを覆っていた。久しぶりの雪が嬉しいのか、はしゃいだ甥は、積もり過ぎたそれに足を取られながら、表通りへと、ぽつぽつ足跡をつけて行った。

　遅い朝日に染まる雪の道は、細かな虹色が淡い紫の中に浮いていた。

　梅の花が咲く頃、事務所あてに、連絡船の予約が、天蓬名義で入った。三月後半に行きだけの予約だった。帰りはたぶんこちらで都合をつけるつもりだろう。とりあえず予約完了案内の無機質な事務メールを返した。

　三月の後半なら、桜も咲き始めているかもしれない。寒さも緩んで、心地の良い時期だろう。春の嵐で海が荒れなければいいけれど。相変わらず天候は不安定で、欠航してしまうのはザラだった。

　昼の休憩時に端末を見ると、天蓬からメッセージが入っていた。

「連絡船の予約を入れました。よろしくお願いします。」

「そちらの天気はいかがですか。」

「穏やかだと良いのですが。年始に寒波が来ていたので。」

「少し、心配しています。」

　送信ミスなのか、ぶつぶつと途切れて届いているそれに、ついぞ見たことはなかったけれど、端末をいじるのは、きっと苦手なのだろうと想像がついた。

　今ならあちらも休憩時間ではないだろうか。

　時計は十二時半を少し過ぎていた。

　登録したものの、掛けられないでいた番号を呼び出す。一度だけ、留守番電話に切り替わるまで。近くにいないかもしれないし、そもそも鞄や机の中に置き去りにされているかもしれない。繋がらなかったら、そういうことにして、電話を切ろう。

　幾重にも予防線を張る自分に、みっともないと呆れそうになった。

「…………もしもし、○○大学文学部歴史文化研究室、天蓬です。」

　十回目の呼び出し音に諦めようとしていた時、すらすらと名乗る天蓬の聞き慣れた声が返って来た。裏返りそうになる声を、堪えようと、咳が出た。

「もしもし、○○運送の捲簾ですが。」

「……お久しぶりです。」

「久しぶり、元気？」

「ええ、試験の採点も、レポートのチェックも済んで身軽です。いつでも行けますが、その前に寝かせてください。」

「忙しかったの？」

「ここ三日仮眠です。」

「それは三徹って言うんだよ。」

「仮眠してます。」

「それは仮です。」

「揚げ足をとらないでください。」

　このまま日向のベンチで煙草を飲もうと、まだ冷たい風の吹く外に出た。聞こえてくる声は、眠たそうで、何度か欠伸を噛み殺しているのがわかった。

「悪かった。もういいから、先生は寝ろ。」

「嫌です。」

「…………はあ？」

「目が冴えてしまったので、眠気が来るまで相手してください。」

「いや、それは謝るから、とにかく寝て欲しいです。」

「……敬語はやめてください。他人みたいで嫌です。」

「先生は敬語だろいつも。」

「仕様です。……僕のこれは仕様です。」

「わかった。とりあえず眠くて頭が回ってないのはわかったから、寝ろ。」

　明け方によく聞くような声音は、口が追い付いていないのか、聞き取りづらい。

「嫌です。起きてます。」

「寝てないなら、大人しく寝ろ。昼間に起きてると思った俺が悪かった。」

「……だって、せっかく電話をかけてきてくれたんですよ。切りたくないです。」

　起きているのか判然としないまま、捲し立てるように甘えないで欲しい。これで無自覚なのだから、たちが悪い。

「…………なにか、喋ってください。放送事故です。」

「放送でもなんでもないんだよなあ、……寝てほしいなあ。今すぐ。」

「……わかりました、こんど、リクエストのはがき、……送ります。」

「…………これ、ラジオじゃないんだあ、先生……、聞いてる？」

「…………。」

「…………。」

　返事の代わりに、耳元で、寝息が聞こえた。びっくりした拍子にうっかり通話を切ってしまったので、仕方なく、ちゃんと寝て、食事も摂って、こちらに来る時には体調と体内時計を整えておくようにメッセージ送った。

　変わらない話ぶりが、懐かしく、早く会いたくなった。

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