épilogue

 

 

 

 髪の先に絡まる指。見覚えのある、整えられた細く白い指。海を臨む錆びたベランダの欄干に寄りかかりながら歌っている、クラスメイトに似た誰か。古めかしい言葉遣いの、知らない歌。ふと、歌が途切れて振り返ったその姿は、学ランを着た見覚えのあるクラスメイトにすり替わっていた。忘れるはずのない声が、自分の名前を呼ぶ。雪の日のバス停と、あの祠のある島で過ごした夜の光景が、バラバラと入り乱れて、混乱してしまう。悟能と名乗ったあの青年が、かつてのクラスメイトに思えてならない。

 耳の奥に染みついた荒れる海の音が、頭の中を書き回して、気持ちが悪い。

 

 パーマ液の匂いと、ヘアカラーの匂いがする。

鷭里の勤めるヘアサロンで髪を切ろうとして。予約がいっぱいで、近場で他にないかと探そうとしたところで、記憶が途切れていた。

 低くゴウンゴウンと何かが響いている。荒れて唸る海の音とは違う。音と一緒に振動も伝わってくる。どうやらそれはごく近くで響いているようだ。

 薄目を空けると、白い天井に、小綺麗なライトが吊るしてあった。

 唸っているのはミニキッチンのすぐ横に設置されている洗濯機だった。白いタオルばかりがくるくると回されている。

「…………。」

 サロンのバックヤードに寝かされているようだ。それにしてもなぜだろうと、一つ一つたどった記憶は、サロンの外に出てきてくれた鷭里との話の途中から、曖昧になっていた。思い出そうとしても、ひどく断片的にしか出てこない。

「…………。」

 貧血だろうか。熱中症にはまだ早いだろう。

 寝かされていたソファに座り直せば、ローテーブルに手土産に持ってきたトマトジュースがあった。渡した記憶は、ないのだけれど。

「じゃあ、先に休憩をいただきます。」

 挨拶の声と一緒に、鷭里が入って来た。

「鷭里、俺…………店の前で、」

「真っ青になって倒れた。」

「ゴメン。」

「調子悪いなら無理して出てくるなよ。看護師してる客さんが涼しいところで安静にって言ってた。熱中症だと困るから、はい、オーエスワン。」

 冷えたペットボトルと、「鉄分・ビタミン」と大きく書かれたゼリーのパウチを手渡された。そういえば、朝食もろくに摂らずに来たんだった。ペットボトルを見ると、無性に喉の渇きを感じて、キャップを開けたそれを飲もうとしたけれど、てっきり甘いかと思ったらしょっぱくて咽そうになった。

「え……これ、しょっぱいの?」

「じゃあ、セーフなんじゃない?甘く感じたら塩分が足りてないらしいよ。」

「……そうなんだ。」

「仕組みはよくわからないけど。」

「……へえ……。」

「おまえ、そんなに激務だったっけ?」

「違う。納期明けでもないし。」

 たぶん、夏の気配が濃くなるにつれ、去年の夢を見る事が増えたせいだ。眠りが浅く、ちゃんと眠ったはずなのに、疲れて起きる事がままあった。

 八戒は卒業式の後、どこへ行ったのだろう。進路指導室の前に貼られた、進路確定者の一覧に、彼の名前はなかった。国立大の合否がまだだったから、てっきり結果待ち組だと思っていたけれど、何年か前に送られてきた同窓会名簿は、名前以外は不明という事なのか、空欄になっていた。

「…………。」

 行方を知ったところでどうなる。つもる話があるわけでもない。離島で、瓜二つの青年に出会った事を話すとでもいうのか。それとも、奇妙な人魚の話か。

いや、「悟能」と名乗った彼は、内緒だと言っていた。

「……悟浄?しんどいなら寝てろ。」

「……いや、控室借りるの申し訳ないし。あ、看護師さんまだいる?お礼しないと。」

「もう帰ったよ。でも、二ヵ月くらいしたら、来てくれると思うから、おまえがお礼言ってたって伝えとく。」

「ありがとう。」

 鷭里が、向かいの中華料理店が出している弁当を頬張っているのを横目に、貰ったゼリーのパウチを開けた。さして力を入れなくてもするすると身体の中に落ちていく。飴玉のパインの味がした。

「明日も休み?」

「うん、日曜だし。」

「閉店後に切っていいって。遅くなるけど。」

「え、まじで?」

「掃除手伝って。残るの俺だけだから。」

「わかった。閉店って何時?っていうか、今、……え。」

「よーく寝てたよ。閉店は九時だから、そのあとでよろしく。」

「なにそれ、夕飯?昼かと思ってた。」

「早めだけどな。シャンプーしてる最中に腹が鳴ったら嫌だし。」

「かっこつけだな、相変わらず。」

「なんとでも、どうぞ。」 

 

 さすがに、それ以上バックヤードを借りているのも申し訳なく、暮れかけの商店街へ出た。古着屋や古本屋を一通り覗き、向かいの料理店で中華粥を頼む頃には、八時を回っていた。調理をする音の向こうから、聞こえてくるラジオは、今年の夏は例年以上に暑くなるだろうと言っていた。

 一瞬だけ、一つにまとめてしまえば、首元の涼しくなる今の髪の長さでもいいような気がした。

だめだ、せっかく、今朝方髪を切る気になったんだ。惑わされてはいけない。

 

閉店後に、サロンのオーナー夫婦を二人で見送った。明日の開店をいつも通りできるように、掃除と片づけをするなら、泊って飲むなりなんなり二人で楽しんで構わないと、店の鍵を鷭里に渡して、二人乗りの大きなバイクを表通りまで押して行った。

 さっさと切って、近くのスーパーで夜食と酒を買おうと言い出した鷭里は、こちらの答えを聞く前に、シャンプー台を勧めた。

「どのくらい切るとか、決めない?ふつう。」

「似合うように切るから安心しろ。」

「俺の希望は?」

「おまえは聞くと、また切るの迷いそうだから、もう聞かない。」

「…………。」

「久しぶりだな、人の切るの。」

「その言い方、なんか怖い。」

 無駄口を叩いているうちに、首にタオルが巻かれ、ケープがかけられた。諦めて寝椅子のような台に身を任せる。長い髪はシャワーで水をたっぷりと含まされると、重くなって少し驚いた。

「ん……熱いですか、お客さん。」

「いや、なんか重い、髪の毛。」

「さっぱりしていけ。」

「うん、ありがとう。」

 夏も近いからか、シャンプーは薄荷の香りがした。うなじから頭のてっぺんまで、なぞるように指が通されるたびに、ひんやりとして心地良かった。うっかり寝てしまわないように、目を開けていると、小さなシャボン玉が、昇っていった。

 

 丸い表に小さな虹をまとうそれは、視界から消える前に、パチリと消えた。

 

 

 

 

 

 


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