prologue
窓の隙間から見える、梅雨の明けた夏空に、今日でなくてはいけないと思った。吹き込む風は熱いはずなのに、首元を通り過ぎる時だけ、なぜかヒヤリとする。知らぬ間に汗を含んだ髪が、纏いつく。なぜ、一年近くも伸ばしていたのだろう。傷んでいるから毛先だけでも切れと言う鷭里に、何度断ったかわからない。 「……うち、予約優先だっていつも言ってるだろ。」 「ワルイ、切ろうと思ったの今朝なんだ。」 「友人枠とか、ないんだけど?」 「知ってる。あ…………仕事中にゴメンな、この辺り当たるわ、適当に。」 鷭里の寄りかかっている店の扉に、自分の顔が映っていた。呆れるほどヘラヘラした男。自分はこんな顔をしていただろうか。朝、鏡で見る顔は、寝起きのせいか、いつも眉間にしわが寄っている。鏡の奥からこちらを見つめる虚像が笑う所を、あまり見たことがない。 「電話くらい入れろ。」 「……メッセージ送った。」 「何時?」 「十時くらい?」 「仕事中は見ないって。店に電話入れろよ。」 ガラスの向こうで働いているサロンの美容師はみな、くるくると忙しそうだった。時々、こちらに視線が来るのがわかる。客の座る椅子を離れた時だったり、雑誌を待合のラックに戻しに来た拍子だったり。シャンプー係の鷭里は早く返した方が良さそうだった。 「なんで、わざわざ出てきてくれたの?」 「店の中だと、タメ口だめだろ。」 「あー…………、そっか。」 「悟浄、なんか、おかしいぞ。もう夏バテか?」 そうかもしれない。扉に映るいかにも軟派な男は、自分じゃないみたいだ。そう思うのに、ヘラヘラと、締まりのない笑みが止まる事はない。服にしたって、もう少しどうにかならなかったのか。『I am Rock.』濃いピンクにラメの入ったインクで印刷された、手書きのようなロゴ。衣替えをし損ねて、てきとうにTシャツを引っ張り出すくらいなら、春物のシャツの袖をまくった方がましだったと思う。 賑わう商店街は、敷いてある黄色のブロックから、ゆらゆらと陽炎でも立ち上っているようだ。 「…………?」 「……悟浄?」 聞こえるはずの、喧騒が聞こえなかった。後ろを通り過ぎる家族連れの声がひずむ。耳の奥で響く声は、意味をなさなくて、ただただ心地が悪い。目の前で話しているはずの、鷭里の声が遠のいていく。今日は晴れているはずなのに、雲でも出てきたのだろうか、視界が薄暗い。 喉が渇いたな。そうそう、久ぶりだから、手土産に新しい商品を持ってきたんだ。パッケージのロゴは俺が作ったんだ。すっきりとしたデザインで、自分でも気に入っているんだ。中身は少し高めのトマトジュースだよ。ただのトマトジュースなんだけど、ほんの少し甘くて、昔、叔父に作ってもらったトマトジュースそっくりなんだ。水とトマトと少しだけ砂糖入れてミキサーにかけるだけなのに、採れたてで作るとおいしいやつ。 「…………悟浄?」 「…………。」 鷭里はちゃんと聞いていただろうか。 たしかめる前に、扉に映ったヘラヘラした男は、消えた。
「彼」と、初めて言葉を交わしたのは、雪の日だった。午後から降り始めたそれは、音もなく降り積もり、下校の頃には自転車で帰るのは諦めようと思った。 陽が落ちると、冷え込みがきつく、いつの間にか靴の中にしみた雪で、足先が痛いほどだった。バス停でじっとしていると、体中の熱が奪われそうで、トントンと軽く跳ねていると、ベンチの方から、笑う声が聞こえた。 「たぶん、バスは時刻表通りには来ませんよ。」 「…………?」 聞き覚えのあるその声の方を見やると、街灯に照らされて橙に染まった雪の中に「彼」がいた。「どうぞ、寒いでしょう?」と、まだ封を切っていない小さなカイロと、飴玉をこちらに差し出していた。言葉が一つ一つ零れる度に、口元まで覆っているマフラーから白い息がふわりと舞い上がっては消える。うまく答えられないでいると、ため息なのか、何なのか、白い息だけが吐き出されて 、肩から掛けている鞄の外ポケットにそれを突っ込まれた。 「あ……ありがとう。」 「いいえ、あなた寒そうですもん。」 小さく頭を下げると、教室で見るのとは違う、屈託のない笑顔が返って来て少し面食らった。もともと人当りの良さそうな風体だけれど、作り込まれたように非の打ちどころのないそれは、近寄りがたい壁のようで、一年から同じクラスなのに、卒業まであと二ヵ月と少しになる今の今まで、ろくに話をした事がなかった。 「ええと、……僕はあなたと三年間同じクラスなんですけど…………ああ、ごめんなさい、親しいわけでもないのに。お節介は癖なんです。」 どことなく、所在無げにこちらに伸ばしていた手を戻した彼は、「そうですよね、僕、影薄いですもんね、記憶になんてないですよね。」と、見覚えのある、教室でするような顔で笑った。 「あ……、いや、そうじゃなくて。名前くらい知ってるし。猪八戒だろ。」 「正解です、沙悟浄さん。」 「なにその、他人行儀。」 「他人でしょう?」 「クラスメイトだろ。」 「まあ、そうですけど。」 ずっと、見えない壁のような物をめぐらしている彼が、こんな風に話すとは思わなかった。 「……影が薄いなんて思った事ないよ。」 「…………そうですか。」 「そうだよ。」 必修の科目しか一緒にしかならないけれど、彼の英語や現国の朗読をする声は凛としていて、綺麗で心地が良いそれを聞くのが好きだった。一年の時からずっと。ただ、折り目正しく見える彼に、自分のような半端者は、話しかける理由もきっかけもないまま、時間を過ごしてしまっただけで。むしろ、こちらの名前を知っていた事に驚いたけれど、よくよく考えたら、こんな色の頭を隠しもせず晒しているのだから、記憶に残るなという方が、たぶん無理だろう。 「修行が足りませんねえ、僕。」 「…………は?」 「気配を消して生きていたいんです。」 「………………は?無理だろそれ。自覚ないわけ?」 「……何がです?」 「あんたの声。」 「…………はい?」 「あ……いや、なんでもない。」 いつも、クラスメイトとはどんな話をしていただろう。何をきっかけに話を始めて、笑ったりなんだりしていただろう。他愛もない話をするのが、こんなに難しいとは思わなかった。授業の話、クラス担任の話、今なら受験の話でもすればいいのだろうか。気軽に話してもいいものなのだろうか。既に専門学校への進学を決めた自分と、話は噛みあうだろうか。共通項が何も見つからない。 「…………あー…………、…………。」 「あ、来たみたいですよ、バス。」 「……え。」 「よかったですね、寒くて足が痺れましたよ。」 シャリシャリと雪をかくような音をさせながら、ゆっくりと近づいてきたバスは、湯気ののように立ち上るガスを吐いて止まった。普段からこんなに人が乗っているのか、わからなかったけれど、さっさと乗り込む彼の後について、乗り込んだバスの席は埋まっていて、適当に並んで吊革につかまった。 習慣なのか文庫本を取り出した彼に、これ以上話しかける気にもなれず、町の灯りを映す雪雲を見ながら、貰った飴玉を口に入れた。 少し懐かしい、甘いミルクの味がした。
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