V e x a t i o n s 

< vexation > // ヴェクサシオン
  @苦しめること。虐待。抑圧。
  A 自尊心を傷つけること。侮辱。屈辱。


  初めて手にした給料で、おもちゃのピアノを買った。やや大きめのその黒い箱を脇に抱え、森の小道を足早に進む。
  今夜は雨が降りそうだ。

  一月ほど前に始めた本屋でのアルバイトは思いのほか順調だった。新しい名前を貰い、新たな人生を歩むことを決めた彼からの申し出である。さすがにこれ以上家主の不安定かぎりない収入に頼りっきりというわけにはいかなかった。働くのは楽しかった、何よりも、森深くの小さな家で、一通りの家事を済ませ一日中暇を持て余しているのは、余計なことにまで思考が行ってしまいそうで怖かった。町の喧騒に耳を傾け、湿った本の匂いに包まれるのはとても心地好かった。

 彼が家に居つくようになっても、家主の生活に変化はそんなに現れなかった。変わったことと言えば、毎日決まった時間に彼に起こされ、彼と共に早めの昼ご飯(家主にとっては朝食でしょう)を摂るという習慣がついたことだ。それ以上は、何も変わらない。何も。生活費は相変わらず賭場で稼いでいたし、そのまま女性の家へしけこむこともしばしばだった。出会う前と変わらない、生活。彼、八戒もそのほうがよかった、そのほうが変に遠慮をしないで済むから。ただ・・・・・。


 ドアを開けると、そこは暗くしんとしていた。テーブルの上にはいつものように書置きがしてあって、ひとこと、夕飯はいらないと告げているだけだった。

 溜め息を一つついて、寝室へと向かった。

 キシリ、とベッドが悲鳴をあげるのにも構わず、よじ登り、毛布に包まって、黒い箱を開いた。毛布の裾を引きずりながら部屋の灯りを消すと、窓から差し込む仄暗さだけが手元を照らした。試しに一つ音を引いてみる。少し長めのラの音。安っぽい弦を叩くその音は、少し違和感があった。

 かつて、教師という職業についていたお陰か、たしなむ程度のピアノは弾くことができた。ただ、それも半年近く前までのこと、あの事件以来ピアノなんて弾く気にもなれなかった。今日の帰り道、古道具屋で欲望の赴くままにこのおもちゃのピアノを購入した衝動は、彼自身ですら理解できなかった。 

 所詮たしなむ程度なので、レパートリーはほとんど無い。しかも楽譜もあるわけが無かった。とりあえず、いつも家事の最中に鼻歌で歌っているものを弾いてみた。子供用の小さな鍵盤の上を、形の良い手指が少し背を丸めながら、音を探っていた。シンプルな旋律のワルツだった。





   そう言えば、こんなことがあった。

 

  「なぁ、それなんて歌?」

   いつものようにおなじみの鼻歌を歌いながら楽しそうに流し台に立つ八戒に、暖かいコーヒーをすすりながら、悟浄はきいた。

   少しの沈黙があって、食器の水を切りながら、答えが返ってくる。

  「あなたが欲しい。」

  「・・・・・。」

   何の反応も無いので、振り返って見ると、案の定、開いた口が塞がらないとでも言うように、絶句している悟浄の姿があった。

  「歌の名前ですよ、これ。一応あなたの質問に答えたつもりなんですけど?」

  「あ・・・、そ!そう、歌の名前ね、歌の。」

  「そぉですよ、当たり前じゃないですか。」

   手を拭いてエプロンを取ると、自分にカップを手に、悟浄の隣に落ち着いた。バツが悪そうに視線を泳がせながら、コーヒーをすする姿がおかしくて、口元が緩んでしまう。

  「なに笑ってんだよ、コラ。」

  「いーえー、別に何でもないです。」

   そう言って、やっぱり堪えきれず、吹き出してしまった。




 ささやかな想い出を引っ張りだして、ゆっくりと曲は終わる。『あなたが欲しい』と、あの時言った言葉は、本当に曲の名前だけを告げるものだったのだろうか?それは、自分でもわからなかった。

 星一つ無い灰鼠の空から、とうとう雨がやってくる。不規則に窓を叩くその音に、どうしようもなく居心地が悪くなった。

 だんだんと強くなってゆく雨音をかき消すように、ただ一身腐乱に鍵盤を叩いた。しかし、すぐに知っている曲も無くなってしまった。



               さて、どうしたものでしょう。



 ヴェクサシオン。そうだ、そんな曲もあった。楽譜にしてたった一段。 15 秒ほどの小さなモチーフだった。少し不協和音気味の旋律を思い出しながら、白いプラスチックの鍵盤を辿る。一通り弾き終えて、楽譜の隅に書かれていた作曲者の注意書きを思い出した。『このモチーフを 840 回続けて弾く為には、あらかじめ、静寂の深みの中で、確固たる不動の意志によって心の準備をしておくことが大切だろう。』 840 回ですか・・・。いくら短いものだとはいえ、やり遂げるには何時間かかるだろう?夜が明けてしまうかもしれない。雨は止んでいるかもしれない。



               やってみましょうか?




 一つ大きく息を吸って、ゆっくりと静かに吐くと、垂らしていた手を再び鍵盤の上に乗せた。そして・・・・・、その奇妙な旋律はゆっくりと、紡がれていった。繰り返し。繰り返し。

 840回、弾き終わるまでに、

夜は明けているだろうか?

雨は止んでいるだろうか?

・・・・悟浄は、帰って来るだろうか?

 

 何回繰り返したのか、途中からはもう分らなかった。同じ旋律が狂ったように幾度も頭の中で繰り返されていた。自分の指が鍵盤を叩いているのか、ただの空耳なのか、それすらも分らなかった。夜明けよりも、雨が止むことよりも、何よりも悟浄の帰りを待ち望んでいる自分がいた。もう夏だというのに、毛布をかぶっているのに、言いようもなく寒かった。

 

 

 窓枠を照らす朝日に、まぶたの裏が紅くなるのを感じた。あの旋律は聞こえなくなっていた。八戒がだるそうに重い瞼を上げると、そこは見慣れた天井の、いつもと変わらぬ朝だった。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。朝日は暖かかった。

 ふと、手元に昨夜まで弾いていたピアノが無いことに気付く。訳が分らなくなってあたりを見回しても見つからなかった。一瞬、昨夜の出来事は夢だったのかと思ったけれど、それにはあまりにも指先の痛みが生々しかった。

 朦朧とする頭を抱えてひんやりとした床を扉に向かう。ドアノブに手を掛けると、かすかに居間の方からおもちゃのピアノの音がした。

「悟浄・・・・・?」

 扉をゆっくりと開けると、そこには胡座をかいた膝の上に黒塗りの小さなグランドピアノを乗せた家主の姿があった。いつになく真剣な面持ちで、硬直した人差し指を鍵盤に押し付ける。何を弾こうとしているのかは、音が断続的過ぎていまいち分らない。もどかしげに指を動かす姿に、堪え切れずに笑いを漏らすと、悟浄は八戒の姿にやっと気が付いたようだった。

「よう、おはよーさん。・・・・・悪ぃ起こしちまった?」

「いえ、もう朝ですので。」

 そう言って、台所に向かう。

「僕、寝てました?」

「ええ、そりゃもうぐっすりと。」

「そうですか。」

 そう言って、一つ溜め息をつく。結局当初の目的の840回は達成できなかったらしい。

「何?怒ってる?勝手に部屋に入ったこと。」

「いいえ、そんなんじゃないです。・・・それより、コーヒー飲みます?」

「濃いめのね。」

「はいはい。」

 いつもの様に鼻歌を歌いながら準備をする。

 途切れ途切れのピアノの音の合間に、悟浄の声が聞こえた。

「なー、後で教えてよ、・・・・・あれ、なんだったけ、ほら・・・。」

「何ですかー?」

 濃いめに入れたコーヒーを手に、ゆっくりとその隣に落ち着く。相変わらず悟浄はピアノと格闘している。

「お前の鼻歌のヤツ。」

「『あなたが欲しい』、・・・ですか?」

「そう、それ。」

「いいですよ、でも覚悟してくださいね。こう見えても僕、結構厳しいですから。」

 笑顔でそう言うと、八戒の言葉に手を止めた悟浄に湯気の立つカップを手渡した。

 砂糖は入れていないはずなのに、少しだけ甘い匂いがした。

 

                                          fin

 

 

メモ

最初にUPしたもの。

参考/「vexations」、「je te veux」

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