赤い魚
水草  

 南風が吹く度に、軒下の風鈴にに混じって、遠く町の方から、祭りのお囃子の音が聞えた。

 時計の針は11時を既に回っていて、もうすぐ本も読み終わってしまう。

 お茶を飲もうと手を伸ばしたけれど、そういえば先ほど飲み干してしまったということに気が付いて、椅子をひいて、重い腰を上げた。

 静かにやかんへ水を注ぎ、火にかける。かすかな音を立てて揺らぐ炎に、少し前に浴衣を着付けてやった同居人を思い出した。

 今ごろは、何をしてるのだろうか?

 まさか、彼がおとなしくお囃子など聞いていることはないだろう。

 出店で遊んでいるだろうか?

 夕飯は食べずに行ったから、屋台で何かを食べているかもしれない。

 一緒に行くと言っていた女も、やはり浴衣を着ているのだろうか?

 髪はきれいに結い上げているのだろうか?

 それから・・・・・。

              それから?

              ・・・・・・・・・。 

 女を送って・・・。

 ・・・・・、そのまましけこんでしまうのだろうか?

「・・・・・・・っ。」

 勢いよく上がる湯気に思考を遮られる。

 ポットにお湯を注ぎ、蒸らす。

 自分が何を考えていたのかもう一度思って、これでは嫉妬でもしている女のようだと、自嘲気味に笑って、一つため息をついた。

 ため息混じりに入れたお茶は、蒸らしすぎたのか、少し苦かった。

 

 身の回りの世話をしていると言っても、自分はただの同居人に過ぎない。確かに運命的とも言える出会い方ではあったけれど・・・。それが、二人の仲を特に親密にするわけでもない。それ以前に、同性である同居人にこれ以上の親密さなど求めようがなかったし、求めるつもりもおそらくない。

 自分が一体何をしたいのかよく分らなかった。

 時折、その感情は、はっきりとした形を持つようになるものの、気が付けば曖昧に融けていった。

 結局、その現れては消えてゆく感情にどのような名前をつければ良いものか、判断はつきかねた。

 もう、本を読む気はしなかった。

 訳の分らないことを悶々と考えるよりも寝てしまおうと、流しへと向かった。



 風にざわめく木々の葉の音の中に、気が付けば、聞きなれた口笛の音が混じっていた。

          帰ってきた?

 時計を見たけれど、まだ、日付は変わっていなかった。

 カップを洗う手を止めて、どういうわけかいつもよりも早く脈打つ胸を押さえて、ドアが開くのを待った。

 カラコロ、という下駄の音は、少しずつ近づいて、鼓動と重なった。

 自分がどんな顔をしているのか不安になって、八戒は再び洗物に手を伸ばした。

「・・・ただいま〜。」

「お帰りなさい。ずいぶんと早かったですね?」

 いつになく上機嫌な悟浄に、ほころぶ口元がどうにもならず、背を向けたまま答えた。

「どーゆーイミよそれ?・・・なあ、八戒?」

「はい?」

「土産があんだけど。」

 そう言って、流しに近づくと、その手を八戒の目の前に差し出した。

 びっくりして、ポットの蓋を取り落としそうになりながら、見ると、それは、小さな透明なビニールに入れられた、一匹の赤い金魚だった。

「どうしたんですか?コレ。」

「見りゃ分るだろう?すくったんだって。」

「へー、悟浄がですか?」

「当たり前。」

 自慢気に言う、彼に手についた泡を落としながら、少し水を差してみる。

「へー、一匹だけですか?」

「・・・、何が言いたいんだよお前。」

「いいえ?・・・で、何回挑戦したんですか?」

「・・・・・・・意地悪。」

「そうですか?で、何回目で成功したんですか?」

「・・・・・はーい、8回目でーす。・・・って、紙が弱すぎんだよ、紙が!」

 子供のように拗ねる悟浄に、くすくすと笑いながら、コーヒー飲みますか?と聞けば、また、いつものように濃い目のがいいと答えが返ってきた。



 コーヒーが入るまで、悟浄は浴衣を着たまま、なにやら戸棚を物色していた。

「何を探してるんですか?」

「何か、入れ物。コイツ入れとくやつ。」

 そう言って、椅子の背に引っ掛けてある、金魚を指差した。

「それならそこにビーカーがあるでしょう、ガラスの・・・」

「これ?」

「そうです。」 

「何でウチにこんなもんあるんだ?」

「余計なことは聞かないで下さい。」

 八戒が二人分のコーヒーカップを置くのと同時に、悟浄も水をはったビーカーをコトリと置いた。

 狭いビニールからビーカーに移されたソレは、その円形の筒の中で、くるくると泳いでいた。

「寂しくありませんかねぇ、一人で。」

「それって、嫌味?」

「さぁ?」

「でもホラ、お前がそう言うと思って、コレももらってきた。」

 浴衣のたもとから出されたのは、水から上げられて少しだけ干乾びた水草だった。ビーカーの中に落としてやると、ちぢんでいた葉を広げて、赤い魚の作る波紋にあわせてゆらゆらと揺れた。

「コレで、寂しくないだろう?」

「まぁ、それでいいことにしてあげます。」

 水草を、キスでもするようにつつく魚の様子を見て、八戒は苦笑した。

「でもさぁ、これって、少し狭くない?」

 確かにそのビーカーはガラスコップよりも一回り大き目ではあるものの、それでも、少し魚を飼うには狭いように思えた。現に、くるくると泳ぎ回るそれは時々、コツンとそのガラスの壁に鼻先をぶつけていた。

「大丈夫ですよ、金魚って、意外とお馬鹿さんですから。」

「ナニよそれ。」

「忘れちゃうんですよ。壁にぶつかっても、すぐにそのことを忘れちゃうんです。」

「へー。」

 まるで、自分のようだと思いながら、コーヒーを飲む悟浄に目をやった。

 この同居人に対する感情が、単なる恩義なのか、またそれとは別のものなのか、気が付きそうになる度に、またその答えはどこかに消えてしまう。それが何だったのかさえ、思い出すことが出来ない。

 それは、もしかしたら、気付くことが怖いだけかなのかも知れないけれど。

「でもよー、自分がこんな狭いとこに入れられてるのにも気付かないって、相当じゃないか?」

「そうですねー、悟浄といい勝負かもしれませんね〜。」

 遅くなってしまったけど、シャワーでも浴びてしまおうと八戒はゆっくりと立ち上がった。

「なんだよそれ。」

 不服そうに見上げる悟浄の肩に手をついて、その耳元で、わざと囁いてやる。

「着せてあげた時、あんなに言ったのに、もう忘れたんですか?」

「・・・・・?」

「浴衣の合わせ目、逆ですよ?右前が上になってます。」

「・・・・・・・・・!」

 何をやってきたんですかねぇ、と、わざとらしいため息をつきながら、八戒は浴室へと向かった。

 合わせ目の違いに気付いた時に感じたのが、紛れもなく嫉妬だと、確信して。あっけに取られて言葉も返せない悟浄に、言い様もない愛しさを感じつつ。



 ビーカーの中の赤い金魚は相変わらず、時折ガラスの壁にぶつかりながら、緑の水草へのキスを繰り返していた。





                     fin

 

  6/juin/2001



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