<桜の木の下

こんな夢を見た。

 それは奇妙な光景だった。

 星一つ無い空に、痩せた月と、その薄明かりの中に、満開の桜が一本。

 その桜を見上げる形で、俺と、目の前に敷かれた白い褥には一人の男が横たえられていて、その枕元には男の者と思われる黒縁の眼鏡が置いてあった。

 目の前に横たわる人物の、凛としたその声は、静かに、

「僕はもう死にます。」

 と、言った。

 枕に散った黒髪に縁取られたうりざね顔は、頬には赤みが差していたし、到底死に際のものとは思えなかった。

 一瞬訪れた沈黙の中に、桜の枝のざわめきだけが耳についた。

「本当に、死ぬのか?お前。」

「ええ、残念ながら本当です。」

 枕元に顔を寄せて真剣に訪ねてみても、相手はそしらぬ顔でそっけなく答えるだけだった。

 溜め息を一つついて、見上げた空は深く淀みない闇夜で、桜の淡い白だけがその中に朧げに浮かび上がっていた。

 余りにも現実味の無い言い草に、苛立ちを覚えながら、再度尋ねる。

「本当にもう死ぬのか?」
 
すると男は、やはり決然とした口調で、

「運命ですから、仕方ないんです。」

 と、答えた。

 その僅かに潤んだ碧の目には、頬になにやら印のある短髪の俺が映っていた。



  俺は、その男を天蓬と呼んだ。
 


「捲簾、一つお願いがあるのですが・・・。」

 男は、俺をそう呼んだ。

「・・・・・あ?」

「僕が死んだら、貴方の手で、この木の下に埋めてください。貴方のその杯で墓を穿って、その酒瓶の欠片を墓標にして下さい。」

 俺の腰についている酒瓶を指して、少し微笑みながら言った。

 その手を取ってみても、それはいつもと変わらず暖かいままで、やはりこれから死に行こうとしている者の手とは思えなかった。ただ、かすかに、指先が震えているように思えたので、その願いに言葉も無くただ頷いた。



「待っていてくれますか?桜の木の下で、500年、待っていてくれますか?」

 突然、俺の黒革の袖を掴んで懇願するようにいった。

 溜め息混じりに、こちらが了承の生返事を返すと、安心したように、俺の手のひらをそ
の温かな頬にあてがって淡々と言葉を続けた。

「日が昇るでしょう、そして、沈むでしょう。そしてまた日が昇って沈むでしょう。それ
を182591回数えて下さい。そうしたら、また、会いに来ますから。貴方に会いに来ますから。」

「本当に?」

「ええ、必ず。」

 男は静かに微笑むと、一つ大きく息をついた。すると、その見開かれた目のきれいな碧の虹彩に深い色の瞳孔が滲んで、目じりから、涙がひとすじ零れ落ちた。

・・・・・もう死んでいた。

 俺は、その華奢な骸を掻き抱き、その名を叫び、泣いた。でも、答えは何一つ返ってこなかった。



 星一つ無い空で、見守るものは皓く濡れたように光る痩せ細った月だけだった。

 手が汚れるのも構わず、男の墓を穿った。朱塗りの杯は縁の方から段々を磨り減っていたけれどそんなことは、もうどうでも良かった。

 穿たれた窪みの中にその体を横たえると、ただでさえ華奢な体は、尚一層小さく見えた。
 
 土をもとどおりにならすと、自然と小さな塚ようになった。手近にあった石で、酒瓶を砕いて、中でも形良く大きなものを墓標の変わりにその塚の頂上に置いた。白い釉薬の塗られたそれは、月明かりを受けて鈍く光っていた。

「酒も女も絶って、此処でお前を待てってか?酷なこと言うよなぁ。まぁ、花があるからいいけどよ。」



 月が地平線の彼方へと消えてから、しばらくして、赤く融けたような太陽か顔を出した。そして、空を自分と同じ色に染めて、別れを呟いた。俺は、「一つ」と数えた。そして、また、太陽が同じ道を辿ってゆく。俺は「二つ」と数えた。その単調な作業に何時しか、幾つまで数えたか分らなくなってしまった。もう、何もわからなかった。

 段々と細切れになって行く意識の中で、最後に見た男の笑顔と、目の碧色だけが、鮮やかに焼きついていた。






 目が覚めると、そこはいつもの部屋だった。違うことと言えば、ベッドが赤の他人によって占領されているということ。首と背中が心なしかいたいのは、かれこれ一週間近く床を寝床にしていた所為。

 とりあえず、眠気を覚ますために、洗面所へと向かう。鏡には相変わらず紅い瞳と、長く伸びた同じく紅い髪が映っていた。未だにこの色は好きになれない。

 曖昧な夢の記憶に悶々としながら、コーヒーをいれて落ち着く、ベッドの上では昏々と
眠り続ける、拾った男の体があった。時折うなされるように身じろぎはするものの、目覚
める気配は無かった。

 コレを拾ったのは一週間前の雨の日だった。雨に濡れた新緑の間を走る小道。春先には見事な花を咲かせる桜の木の下に、こいつは倒れていた。街灯も無い暗闇の中で、よくは見えなかったけれど、なにやら、大怪我をしているようだった。黒く見えたのはおそらく血なのだろう。いつもなら、そしらぬ振りをして、通り過ぎるはずが、俺を見上げたそいつの顔がそれを許さなかった。


 俺を見て笑ったような気がしたから。


「・・・ぅ・・」

 小さな呻きが聞こえた。

 そして、

「地獄って案外庶民的なところだなあ。」

 と、ぼんやりと呟く声が聞こえた。

 やっと、意識が戻ったかと、その顔を覗き込む。少し驚いて見開かれた目に、それがきれいな碧であることに気付いた。深い淵の淀みを思わせる色だった。

「わるかったな、庶民的で。」


 目の前に横たわる男の目の深い碧の色に、何処かで、誰かが、

「ああ、もう500年経ったんだな・・・。」

 と呟いたような気がした。



                     fin

 

 参考:「夢十夜」

   16/mai/2001

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