アブサン
 

partie/02


 別にたいした理由なんて無かった。ただ、暇だったからとか、何となくその前を通りかかったからだとか、たぶんそんな所。

 そうして、悟浄が足を踏み入れたのは、あの几帳面な同居人の働く本屋だった。

 小さな店内には、所せましと天井にまで達する本棚が置いてあり、文庫本やら単行本や、おそらく何年もこの店に居座り続けているだろうと思われるような専門書まで、びっしりと並べられていた。

 本の匂いは八戒の影響で最近慣れたものの、これ程の本の威圧感に一目見て店内に入る気は失せた。店先から中を覗けば、レジの横で頬杖をついて本に目を落としている八戒の姿があった。そこだけ、穏やかな時間がゆっくりとながれている。それを邪魔するのもまた、何となく気が引けた。

 てもちぶさたの居心地の悪さからか、とりあえず、雑誌に手を伸ばしてみる。ゴシップ記事ばかりが載っているような薄っぺらなページを捲って時間をつぶした。

 町の喧騒が、遠のいてゆくようなそんな感じがした。

 載っている記事はさして興味を引く物でも無く、ただ何となくカードの最中の無駄話のネタにでもなればいいと、そう思った。

 遠くで音が。

 パタパタと音がする。それは段々と近づいて・・・。

「お客さん、立ち読みは困るんですけどね。」

「・・・・・あ?」

 読むのを中断して顔を上げればそこには、ハタキを片手に持った八戒の姿があった。

「立ち読み。困るんですけど。」

「へいへい。」

「珍しいですねぇ、貴方が本屋に来るなんて。」

「どーゆー意味だよソレ。」

 何故かくすくすと笑う八戒に、手にしていた雑誌を元に戻す。

「待ち合わせか何かですか?」

「本屋でか?おー、それもいいかもね。」

「・・・羨ましい限りです。」

「何が?」

「いいえ。」

 そう言って、店の中へ戻ろうとする背に、思いつくままに声を掛ける。

「なぁ、お前何時に上がんの?」

「5時ですけど?」

「じゃあさ、飲み行こうぜ、飲み。」

「僕とですか?」

「そ、だから今からお前と待ち合わせすんの、ココで。」

「しょうがないですねぇ、じゃぁ、あと30分ココで待ってて下さい。」

 複雑な笑みを浮かべて、ハタキの柄で悟浄の胸をトンとつくと足早に奥へと入って行った。






 始めて入った賭場の雰囲気に、八戒は少し戸惑ったように、閉じた扉を背にしたまま止まっていた。たぶん、悟浄に出会わなければ、一生入ることの無かった場所だろう。

 あまり見たことの無い彼の表情に、悟浄はそのシャツの袖を引っ張るようにして、奥にあるバーのカウンターへと連れて行った。 

「珍しいね、男連れなんて。」

「違うって、同居人だって、同居人。」

「初めまして。」

 そう言って、会釈をして、いつもの人好きのする笑顔を浮かべる。変わり身の早さに唖然とするほど、本当に、いつもと変わらない姿だった。

「マスター、いつものちょうだい。二つね。」

「慣れてますねぇ。」

「ダテに通ってねーよ。」

「そう言えば、初めてなんですね、こうやって貴方と飲むの。」

「・・・不満?」

「いいえ〜、彼女達にうらまれるかな〜、なんて・・・。」

 指した先には、時折ちらちらとこちらに目をやる女性達がいた。

「ま、今日はお借りするとしましょうか、いつも彼女達に持ってかれてますからね。」

「お前なぁ・・・。」

「貴方の方こそ御不満じゃないんですか?」

「別に?たまにはいいんじゃねーの?こういうのも。」

 カウンターの方を向いてしまえば、賭場と雑音は少し和らぐような気がした。隅の方では古めかしいレコードが、ボソボソという呟きと共に異国の歌を歌っていた。時折混じる、ガラスの触れ合うような音が心地好かった。

 しばらくして、コトリと緑の酒の入ったグラスが置かれ、角砂糖やピッチャーが出てきて、悟浄がいつも飲んでいるアブサンが出来上がる。よく冷やされたグラスは、水滴をまとっていて、中の緑の液体とあいまって、きらきらと店の明りを映していた。

「これは・・・・・。」

「アブサンですよ。」

「あ・・・・・、えっと、・・・・・緑の妖精、でしたっけ?」

「ああ、そんな異名もあったねえ。」

「なんだ、お前、知ってんのかよ。」

「ええ、名前くらいは。習慣性があるから溺れやすいって、実物を見るのは初めてですけど。」

「ふ〜ん。」

「貴方のカードと一緒ですよ、ダテに本読んでませんから。」

「へ〜。」

 なんだか、手持ちの札を読まれているようだった。何処まで手の内が見えているのか。

 改めて、侮れない男だと思った。相手のことは平気で見透かすくせに、この涼しそうな顔で、何を思っているのか、それは計り知れるはずも無かった。

「飲み方、分らないんですけど。」

「ああ、そのピッチャーの水をさ、上からかけんだよ。砂糖の上から。」

 言われるままに、八戒は水をかける。徐々に白濁してゆく様を、不思議そうに見つめていた。

「面白いですね。」

「だろ?」

 そういって、自分も水を注ぐ。白い色にかき消されてゆく緑が、少し名残惜しかった。

「んじゃま、お疲れさん、と、ゆーことで。」

「いえいえ、こちらこそいつもお世話になってます。」

 社交辞令じみた言葉を交わすと、何故か可笑しくなって、顔を見合わせて笑った。それから、ゆっくりと八戒はアブサンを口に運んだ。白い喉が上下して、目が、ふっと細められる。

「ど?」

「ええ、美味しいです。」

 その言葉に、悟浄は満足げに笑う。八戒はもう一口飲んで、コトリとグラスを置いた。

「どした?」

「いえ?いつもこうして貴方がココで飲んでるのかなーと思って。」

「まあね。」

「僕に勧めたように、彼女達にも勧めてるのかなーと思って。」

「なんだそりゃ。」

「だって、きついじゃないですかコレ。女性なんか飲んだら一発ですよ。」

「お前な、俺をなんだと思ってるわけ?」

「・・・硬派な女たらし。」

 少し考えてから、ポツリと言う。確かに事実ではあるけれど、改めて言われると少々イタイ。絶句する悟浄に、八戒はけして目を合わせようとはしなかった。

 八戒の横顔は、少し暗めの店の照明に、ぼんやりと線を描いていた。微笑みの形にゆがめられた口元、伏せめがちの目に睫が長いことに気付く。端整な造りの顔だと改めて思った。

 そんな、悟浄の視線に気がついたのか、ふとこちらを見た八戒と、目が合う。微妙に色合の違う左右の目。何も映さない義眼と、何を見ているのかわからない左眼。碧のそれは、淀んだ淵のようで、深く、その水底に何を秘めているものを、時折、あばいてしまいたいという衝動に駆られる。この、揺らぐことの無い水面を掻き乱して、それから・・・・・。

「そんなに、見つめないで下さい。穴が開きます。」

「開くかよ、バカ。」

 悟浄の思考を遮るように、冗談めかした八戒に、悟浄は、ついっと右手を伸ばしてその冷たい頬に触れ、以前ある女にやったように、親指で下の瞼を押し下げた。水を打ったように穏やかな碧に、一瞬だけ、息が詰まる。吸い込まれそうだと、漠然と、そう思った。

「何なんですか?」

 困ったように問う声は、何故か遠い。

「・・・・・なぁ、お前の目は何を見てるんだ?」

「・・・・・・・、貴方です。」

「ウソつけ。」

「冗談ですよ。本気になんかしないで下さい。」

「・・・・・。」

 言葉を失って、悟浄はアブサンを一気にあおった。

 何を期待していたのだろうか、自分でもわからなかった。そう言えば、八戒の目の深い色は、水を足す前の鮮やかなアブサンの色と酷似していたことに、今更ながら気が付く。だからと言って、それがアブサンを好んで飲んでいた理由になるとは限らないのだけれど。

        悟浄。悟浄。

 自分の名を呼ぶ声が、なお一層遠くかすかに聞えた。

        酔っ払っちゃったんですか?

 そんなんじゃねーよ、と、ふらついた頭をその肩に預ける。一見頼りなげに見えていた八戒の肩は、頭を乗せるのにちょうどよい高さだった。

        きついお酒なのに一気にあおるからですよ。

 呆れたように、困ったように、呟きながら自分の頬に触れた八戒の手は冷たく滑らかで、気持ちよかった。

 そうだ、きっともう溺れていたんだ。この緑の酒の甘く苦いその味に、与えられる心地好い浮遊感に、そしてその深く鮮やかな緑に。

 頭の中で揺れるアブサンの緑が、やがて、淀んだ淵の深い碧に変わってゆくのがわかった。手を伸ばして、掻き乱してしまおうにも、それが叶わないことは分っていた。それでも・・・・・。

 単なる好奇心なのか、それ以外の何かなのか、曖昧に、名前も付けられぬまま。気が付けば、不確かなその想いはまだ、乳白色の波間でまどろんでいた。

 耳にかかり始めた髪を、丁寧に梳いている指が心地良くて、もうそれ以上、何も考えられなかった。






「しょうがないですねぇ。」

 肩に頭を預けたまま、寝息を立て始めた悟浄に、八戒はため息混じりに呟いた。

 そして、左手でその頭を抱いたまま、静かにゆっくりと、グラスの中の酒を味わっていた。

 
 


 
                                         fin

5/aout/2001

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